阪神タイガース情報局【最新2020年度版】

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野村克也監督が阪神を変えた!3年連続最下位でも野村監督が遺してくれた大切なものとは

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画像:https://hochi.news/

2020年2月11日に84歳で死去した野村克也さんは、阪神タイガースファンとしても忘れられない人物ですよね。ID野球で古田克也捕手を育てて、ヤクルトスワローズを常勝軍団にし、プロ野球人気を支えました。

あの当時、クラスの女子はみんなスワローズのイケメン選手のグッズを持ってるくらい、プロ野球を若い層に認知させてくれました。

そのヤクルトスワローズの監督として長期政権をしたあと、今から20年前の1999年~2001年の3年間、まさか縁もゆかりもなかった阪神タイガースの監督を引き受けてくれた時は本当に嬉しかったです。

それまでの阪神は、バース、掛布、岡田をようして優勝した1985年以来、14年も優勝から遠ざかっていました。優勝から遠ざかっている間の監督は、監督として優秀というより阪神タイガースで人気のあった生え抜きの選手を監督しただけって感じでしたよね。

そこに優勝請負人といった感じで、野村さんが監督を引き受けてくれたのですから、今度こそ優勝できる!と当時の阪神ファンは思ったはずです。

私は思いましたw

結果は3年連続最下位で、最終的に奥さん、野村沙知代さんの脱税疑惑での逮捕で自身も責任をとって辞任という形で終わりました。しかし、野村監督時代の阪神は新庄をピッチャーとして起用したり、なにかと話題を提供してくれましたし、「考える野球」の種を阪神に残してくれたと思います。

そして自分のスタイルでは阪神タイガースを再生させることはできないと悟り、辞める時オーナーに「立て直せるのは熱血型の監督」として星野仙一監督を推してくれました。

この時の推薦がなければ、星野監督が阪神にくることはなかったでしょうし、金本選手が阪神にFAでくることも、のちに阪神の監督を務めることもなかったでしょう。金本監督が誕生しなければ、今の矢野監督も誕生しなかったかもしれません。

成績はよくありませんでしたが、確実に阪神タイガースを変えてくれた監督でした。

 

知将・野村監督のみた阪神タイガース

阪神タイガースの27代目監督・野村克也さんは、のちに阪神の監督時代をこう語っています。

  • 監督を引き受けてものすごく後悔した。オーナーに辞めたいとお願いにいくと3年契約だから3年間はやってもらうと。本当に無駄な3年間だった。
  • ミーティングがないことに驚いた。
  • 阪神はその場の空気で野球をやる球団。
  • 星野監督で良かった。いつ怒鳴られるかという緊張感がないとダメなチーム。
  • 阪神の選手をプロの選手と考えたのが間違い。活躍をほめミスを怒鳴る高校野球のように指導すべきだった。

 この時のことをよく知る阪神のOBである江本孟紀さんは当時のことをこう語っています。

  • 阪神の選手は野村監督に何か言われるとプイッと横を向いてしまった。
  • 阪神の選手は基礎体力がないから開幕から2~3ヶ月ですぐへばるが、野村さんは千本ノックだ、背筋腹筋だといえなかった。

 プロ野球の選手だから、誰に言われなくても当然のように基礎体力を鍛え終わっていて、監督の言葉を理解しようと努力するのは当然ですよね…。

今の阪神はそこまでひどくないと思いますが、昔の阪神タイガースの選手は確かにおごりがあったと思いますし、野村監督は内部に入って本当に驚いたことでしょう。

しかし、監督を引き受けた以上なんとかしようと努力してくれたのが野村監督で、当時のチーフスコアラーによると、野村監督は全選手に反省文を書かせ、それに赤ペンで丁寧に感想や所感、来季に向けてどうすべきか課題を書いて返したそうです。

野村監督は、このチーフスコアラーさんが集めた詳細なデータを毎日もってかえり、映像と合わせて研究をしていたようです。そんな野村監督の3年間で、ミーティングもなかった阪神タイガースのスタッフと選手に、データを使って考える野球が少しずつ浸透していきました。

野村監督の後をついでチームを優勝させた星野監督は、「野村さんが教え込んだ野球のおかげだ」とチーフスコアラーに打ち明けたそうです。

野村監督は、自分の考える野球は阪神タイガースにあわないと思ってらしたようですが、野村さんの考える野球は確実に選手やスタッフに浸透し、そして矢野監督に継承されています。

 

名選手たちの野村監督との思い出

新庄剛志

阪神時代の1999~2000年に野村さんの指導を仰いだ新庄氏は、最初に「#新庄剛志 #野村克也 宇宙人の名付け親」とハッシュタグをつけ、野村さんの写真を添えた。

 そして「新庄お前はファンに愛されるカッコつけて野球をやればええんや 選手に自由に野球をやりなさいって指導したのはお前だけや お前は悔しいくらい可愛いな(>_<)最高の言葉有り難うございました」と野村さんからかけられた言葉を回顧。

 「実は野球の指導を1回しか受けた事がない」とし、「その一回はボールをしっかり芯でとらえなさいただそれだけでした」とやりとりを明かした。

 また「お前は何番だったら野球を真剣にやってくれるんだ?」と問われ、「そりゃ4番ですよ~」と返答すると、「次の日から僕を4番に起用し、その年プロ野球人生最高の成績をあげメジャーに行けた」と秘話を披露した。

 さらに「俺が死んだ後今度は俺が監督ノムさんが選手で二刀流をさせるその時はキャッチャー新庄」と構想をぶち上げた。

 最後は「野村克也という人間に野球人生の終了は1パーセントも無い 俺がそっちに行ったら叩き起こすんでそれまでゆっくり寝ててください(>_<) 本当に笑顔で有り難うございました(^^)また会う日まで野村克也監督」と結んだ。

 

高津臣吾

突然の訃報に号泣した。野村氏のもとで抑えとして活躍した高津監督は「言葉にならない。入団当時から一から十までプロの難しさを…教わりました」と話したところで号泣。今季から監督に就任し、「見てもらいたかったですし、まだまだ教わることもたくさんありました。最近、会えば、抑えにして悪かったなと言われてきました。楽しい時も素晴らしい時もつらいことも、経験できたのがすべての思い出です」と振り返った。

 今は「普通の会話がしたい」と語った高津監督。恩師に誓うように、「ヤクルトを愛してくれた人。監督の思いに応えられるように素晴らしいシーズンにしたい」と語った。

先月行われたヤクルトOB懇親会では、久しぶりの対面に笑顔。「私に用事はないですか?」と切り出し、冗談まじりにヘッドコーチ就任を直訴されていた。野村元監督からは「弱いチームを強くするのは楽しいよ。ちょっと頭をひねれば優勝できる」と野村ID野球の“続き”を願われ、「教わったことを取り入れていきたい。常に僕らの教科書にして」と継承を誓っていた。

 

上原浩治

上原氏はツイッターで「マジですか 野村さんが…詳しくは分からないんですが…」と投稿。その後、インスタグラムでは「野村さんから、直筆の表彰状を貰った人ってほとんどいないでしょう…」とつづって表彰状の実物を公開し、「これは家宝です!!本当にありがとうございました」と感謝した。

 掲載した表彰状には「あなたは日本のみならずアメリカでも野球界発展に貢献されました 私は自分を月見草と称しあなたは雑草魂と称されていましたね。月見草と雑草、陽が当たらないところで育った私達だからこそ今の自分があるのかも知れません 日米で培った経験を球界に還元してくれる事を期待しここに賞します」と書かれていた。

 

川崎憲次郎

川崎氏は「えっ、これは本当なのか」とあ然。「もしそうだとしたらかなりショックだ」と記し、「このあいだお会いしたばかりなのに…信じたくない」と悲痛な思いをつづった。

 

内藤尚行

内藤氏は「1月20日にヤクルトのOB会がありまして、参加してもらった。本当に良い表情をしていた」と話し、突然の訃報に「寂しい」とコメントした。野村さんは、内藤氏を1990、91年で開幕投手に起用。「当時は、監督に直接言われたわけじゃなくて、遠まわしてコーチから言われた」と振り返り「後々、聞くことができて、なんで監督が直接僕に言ってくれなかったんですかっていうのを尋ねたら、『お前はバカだから』っていうことで…。気を遣った僕への伝え方だった」と明かした。

続けて「野村さんの教えの中で『非難・称賛・無視』ということで、何を隠そう、最初のミーティングで怒られたのは僕。『ミーティングで眠くなるやつがいるな内藤』って言われた」と回顧し「それでも非難・称賛・無視っていうので、僕にはどんどん非難しても這い上がってこいよっていう意味だったと思う。そういう組織論から教えられた」と語った。

 

古田敦也

午前8時頃、伊丹空港でチェックインする際、野村氏の息子の克則氏からのLINEを見て悲報を知ったという。最後に恩師とじっくり話したのは、昨夏に神宮球場で行われたヤクルトOBによるドリームマッチの際だった。

「ID野球という言葉があるが、野球は頭を使えば勝てるんだ、ということを教えてくださった方。おかげで、弱小チームが1990年代に強くなった。もちろん今でも野村さんの考えには影響を受けていますし、正しいと思っている。これを継承して次の世代に伝えていくのが僕たちの仕事だと思う」と沈痛な表情で語った。

 野村さんの「ID野球」の申し子として、リーグ優勝4回、日本一3回の1990年代ヤクルト黄金期を支えた。「選手とは一線を引く方で、プライベートでご飯を食べたりしたことはあまりない。僕が監督になった時も『選手と距離を置け』と言われた。監督は時には非情な決断をしなければいけないものですから」、「理論ばかりのようにいわれるが、実際には感情的で、ベースは負けず嫌いのかたまりのような方。その上での理論だった」と惜しんだ。

 

田中将大

「突然の訃報に言葉が出ません。野村監督には、ピッチングとは何か、そして野球とは何かを一から教えていただきました。プロ入り1年目で野村監督と出会い、ご指導いただいたことは、僕の野球人生における最大の幸運のひとつです。どんなに感謝してもしきれません。心よりご冥福をお祈りいたします」と惜しんだ。

 

石井一久

「野球の原点を教わった人。ショックです」としのんだ。

今朝、球団からの連絡で知ったといい「最近元気なかったですが、まさかとは思った。でも奥様(沙知代さん、2017年死去)のところに行けてよかったのかな。(自分は)恩返しはできたのかな?と色々な気持ちがぐるぐる回りました」と話した。

一番の思い出は入団して数年たった20歳の頃。大型左腕として期待を背負いながら打たれて降板した際、監督室で2人きりになり「お前、俺をなめてんのか!」とイスを蹴飛ばされたという。「普段は動きも遅くて穏やかに話す人なのに、あの時だけは動きも速くて、見たことない形相で聞いたこともない言葉遣いだった」と回想。監督に全力で蹴られたイスも5mくらい飛んで行った。「ああ、こういう動きもできるんだと思った。温厚なのに野球には熱い方だった。僕も野球に対する考え方が変わった。あのイスの飛距離とともに一生忘れません」と懐かしんだ。

最後に会ったのは2018年に楽天のGMになる前。解説で訪れた球場で「お前もどこかでユニホーム着ないといけないんだぞ。野球界に恩返ししないとな」と声をかけられた。今季は野村さんの息子・克則も楽天で1軍作戦コーチに。「僕と克則は同い年で、僕も父親のように気にかけてもらった。今年は克則と一緒に戦う大事なシーズン。勝っても負けても何か言われるだろうけど(天国から)見ていてほしいと思う」と全力で戦うことを誓っていた。

 

井端弘和

中学生の時に城南品川リトルシニアに在籍していた井端氏は当時、野村さんの妻・沙知代さんがオーナーを務めていた港東ムースと対戦。投手として強豪相手に好投を見せたものの、惜敗した。この試合を当時は野球評論家だった野村克也さんが、偶然に観戦。井端氏の投球に目を奪われたという。

井端氏は神奈川県内の県立高校へ進学を予定。ところが、ある日、野村克也さんから突然、自宅に電話が入った。「本当にビックリしました。高校で野球やるのなら強いチームでやった方がいいと言われました。それで堀越を紹介していただいたんです」。さらに野村克也さんから井端氏の野球人生を変える言葉も添えられた。「君は投手よりも、遊撃手になった方がいい」。井端氏もこの言葉を信じ、堀越に入学すると遊撃手に転向。1993年には、甲子園出場も果たした。

「もし、野村さんから電話がかかってこなかったら、県立高校に入って投手をやっていたとは思います。そうなっていたら、絶対に今の僕もなかった。感謝しても、感謝しきれません」。井端氏は野村さんの突然の訃報に心を痛めた。

 

王貞治

「野村さんの家でごちそうになったりね。何でも話せるしね。(ささやき戦術は)何かブツブツ言ってたね。あれを聞いているようじゃ、バッティングはできないからね。

我々は感覚でやっていたけど、野村さんは感覚プラス頭脳で、選手としても監督としても成功した。今の時代に野村野球は受け継がれている。同じ時代を戦った仲間だし、残念。(天国で)カネさんと昔話をしてほしいね」と話した。

 

福本豊

「朝の9時過ぎですね、(知人からの)LINEで“ノムさん亡くなったで”と。ええ~、うそや!と。神様が…。現役時代に僕を走らせないように、いろんなことを考えられて。投手にクイックを小さく速くさせるとか、レベルの高いランナーにさせてもらった」

 通算1065盗塁の「世界の盗塁王」。名捕手だった野村さんとは現役時代に、しのぎを削った間柄。「ノムさんが捕手の時に僕が打席に入ると、顔を見れば“走るのか、出たら走るのか”ってボソボソって。打席で“さあ行くぞ”という“間”で言葉を掛けられて、集中力を削がれたとか、そういうこともすごい人でした」。

 最後の対面は、昨年末の番組。「“足がしんどい”とおっしゃるので、“車いすでも、ええやないですか”と話しました。お病気などは聞いていなかったので本当に驚いた。大先輩ですし、早すぎます」と惜しんだ。

 

岩隈久志

「練習中に訃報を聞いてすごく残念な悲しい気持ちになりました。本当に野球の深いところを教えていただいた」と振り返った岩隈。「これからは天国で見守ってほしいというか、ゆっくり休んでいただきたいと思います」と語っていた。