阪神タイガース情報局【最新2020年度版】

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阪神タイガースの歴代監督ってどんな人?日本プロ野球発祥から調べてみた結果…

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不明 - https://en.wikipedia.org/wiki/File:Hanshin_tigers_insignia.PNG, パブリック・ドメイン, リンクによる

阪神タイガースは現在の日本プロ野球で、読売ジャイアンツについで2番めに古い歴史ある球団です。
球団の発足はなんと戦前で80年以上も昔の話なので、そもそもプロ野球ってどういった経緯で誕生したのか、阪神タイガースはなぜ誕生したのかって知りませんよね。私も阪神タイガースとプロ野球が大好きな身としては、興味があったので調べてみました。

そこで、私と同じように日本プロ野球と阪神タイガースの誕生に興味がある人にわかりやすくまとめてみました。阪神タイガースの歴代監督もご紹介しますので、よかったら最後まで読んでくださいね。

 

日本プロ野球は誰がなぜ発足させた?

日本プロ野球が発足したのは、戦前の1931年に読売新聞の社長・正力松太郎がメジャーリーグ選抜を招待して、全日本代表チームや大学チームと試合をさせて興行的に成功したからなんですね。つまり我らが宿敵である読売の社長が、日本プロ野球を発足させたんですね。

読売新聞の社長、正力松太郎はメジャーリーグとの対抗戦の興行が大成功したので、次はベーブ・ルースを呼んでもう一度開催するつもりでした。しかし文部省が野球統制訓令という制度を発令したことで大学生チームが参加できなくなり、メジャーの日本での対戦相手を増やすために職業野球チームを結成することになりました。

1934年に職業野球チームが結成され、メジャー選抜と親善試合を行いました。その後、1934年の12月に読売ジャイアンツの前身となる大日本東京野球倶楽部が結成されました。

1935年は2月からなんと大日本東京野球倶楽部(巨人)がアメリカに殴り込みます!この時、現地マネージャーのオドール氏が、サンフランシスコ・ジャイアンツの元選手であったために、アメリカ人にわかりやすいように「トーキョージャイアンツ」と名乗ることを薦め、現地ではそれが採用されました。

そう、なぜ巨人が「ジャイアンツ」となったのかはこういった経緯なんですね。そして7月までアメリカでマイナークラス相手に109試合戦い、75勝33敗1分とすごい良い成績で帰国。その後9月まで日本各地で試合をし、これが各地に職業野球団ができるきっかけになりました。

翌年の1936年、プロ野球の前身である「日本職業野球連盟」が結成され、現在にいたります。

 

阪神タイガースが誕生したのは巨人のおかげ?

1934年の年末に一足早く誕生した、読売ジャイアンツの前身である大日本東京野球倶楽部の親会社である読売新聞社は、職業野球のリーグを画策していました。それで当時日本最大の球場・甲子園球場を持っていた阪神電鉄に声をかけ、それにのった阪神電鉄が10月から選手を集め、12月に大阪タイガースを発足させました。

そして1936年から、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍(中日ドラゴンズ)、東京セネタース(日本ハム)、阪急軍(オリックス)、大東京軍、名古屋金鯱軍の7球団で公式戦がスタートしました。

つまり阪神タイガースは日本プロ野球の発足に際し、読売新聞社に誘われて発足したので、いわばライバルの巨人のおかげってことですね。

 

阪神タイガースの歴代監督

日本プロ野球が発足してからの、阪神タイガースの歴代監督について一覧にしました。簡単なプロフィールもご紹介しています。

森茂雄(初代監督 )1936年から4ヶ月間【84年前】

阪神タイガースの初代監督は、森茂雄さん。プロ野球が始まったばかりですから、もちろん監督やコーチといった人材はアマチュアから選ばれました。7月に解任されましたが、練習試合で大敗したことが理由と言われています。

石本秀一(2代目監督)1936年~1939年の4年間【81年前】

森茂雄さんの跡をついで高校野球の名監督だった石本秀一さんがアマチュアから監督になりました。

闘志を前面に押し出す猛将で、阪神タイガースの猛虎というイメージはこの監督さんから来ています。ミスタータイガース藤村富美男は闘志を押し出して戦うスタイルを石本監督から学びました。

松木謙治郎(3代目監督)1940年~1941年の2年間【79年前】 

大阪タイガースに選手として入団し4番バッターとして活躍していました。首位打者やホームラン王にもなった強打者で、選手兼任監督に就任しました。監督解任と共に引退しましたが、忍び寄る戦争を考えてのことでした。

若林忠志(4代目監督)1942年~1944年の3年間【76年前】 

大阪タイガースに入団したハワイの日系二世です。七色の球を投げる大エースでナックルを初めて投げたことで有名。選手兼任監督でした。

藤村富美男(5代目監督)1946年の1年間【74年前】         

いわずとしれたミスタータイガース。初代本塁打王。不動の四番バッター。終戦後、選手兼任監督として就任し、戦後の投手不足でピッチャーまで兼任するという活躍ぶりでした。タイガースのために戦後の日本を盛り上げるために身を削っての監督兼業でした。

若林忠志(6代目監督)2回め 1947年~1949年の3年間【71年前】 

戦後、プロ野球の世界に戻るつもりはなかったが、藤村富美男が体をボロボロにしながら頑張っていると聞き、40歳近い年齢で復帰。選手兼監督として復帰。39歳で26勝をあげた。

松木謙治郎(7代目監督)2回め 1950年~1954年の5年間【66年前】

藤村富美男に頼まれて9年ぶり2回めの監督就任でした。最初の2年は選手としても復帰し、以後は監督に専念。戦後で選手確保が難しい時期に、個人財産もつぎ込むほど情熱を持ってタイガースに貢献した。

藤村が判定をめぐって審判を殴った時は、自分が矢面にたとうと審判に柔道技を仕掛けたというエピソードも…。張本勲の打撃の師である。

岸一郎(8代目監督)1955年の1年間【65年前】

松木前監督が解雇となり、次期監督をオーナーが探していた時に紹介され、高校野球の監督から抜擢されたのが岸監督でした。若手を積極的に起用する監督に対し、藤村富美男らベテランが言うことを聞かなかった。シーズン途中で更迭され、藤村が代理監督になりました。

藤村富美男(9代目監督)2回め 1956年~1957年の2年間【63年前】 

前年の代理監督から10年ぶりの選手兼任監督へ。自分が目立とうとするスタンドプレイや、藤村が球団の提示する低い年俸で我慢していたことから全体的に年俸を抑えられた不満から、同僚による藤村排斥事件が起こり、シーズン途中で監督に専任する。

田中義雄(10代目監督)1958年~1959年の2年間【61年前】

日系二世だった若林忠志の紹介で入団したハワイ日系二世で、名前はカイザー田中。のちに日本国籍を取得し田中義雄に。大阪タイガースの正捕手で元祖・メガネの捕手。アメリカ名からキングオブキャッチャーとも呼ばれました。天覧試合の監督を務めた。

金田正泰(11代目監督)1960年~1961年の2年間【59年前】

大阪タイガースの選手としてダイナマイト打線を牽引しました。結婚を機に朝鮮籍から日本国籍を取得し、藤村排斥事件の中心人物とされています。引退後にコーチを経て監督に就任しました。

藤本定義(12代目監督)1962年~1965年の4年間【55年前】

巨人軍の初代監督で、金田前監督にコーチとしてライバルである阪神に招聘され、金田前監督の跡を継ぐ形で監督に就任。古巣の巨人相手に打倒巨人を掲げ、2度リーグ優勝に輝いた名将です。

杉下茂(13代目監督)1966年の1年間【54年前】         

元中日ドラゴンズの選手でフォークボールの神様と呼ばれた名ピッチャーでした。引退後に前監督の藤本に指導者として教えを請い、その縁で阪神の投手コーチに就任。藤本前監督が勇退し総監督に就任後、監督に指名されました。

藤本定義(14代目監督)2回め 1967年~1968年の2年間【52年前】 

自身が指名した杉下前監督がシーズン途中で辞任したため、総監督から再び監督に就任しました。翌年勇退し、技術顧問に就任。

後藤次男(15代目監督)1969年の1年間【51年前】

大阪タイガースのダイナマイト打線の3番をはった名打者でユーティリティプレイヤー。藤本前監督の勇退を受け、ヘッドコーチから監督に就任。

村山実(15代目監督)1970年~1972年の3年間【48年前】 

2代目ミスタータイガース。選手兼任監督に就任し、就任した年はエースとして大活躍し、規定投球回数以上で戦後唯一の防御率0点台を達成しました。

金田正泰(16代目監督)1973年~1974年の2年間【46年前】 

村山監督の勇退で、ヘッドコーチから12年ぶり2回めの監督就任。選手に対する暴言で殴られるなど、選手とのトラブルで嫌われていましたが、入団したての掛布を1軍に抜擢し育てたことで有名。

吉田義男(17代目監督)1975年~1977年の3年間【43年前】 

阪神タイガースの名遊撃手で守備の達人。華麗な守備で牛若丸と呼ばれる。金田監督の成績不振を受け就任しました。江夏とのトレードをめぐる確執があり、その件で江夏に謝罪後も会うたびにずっと謝っている。

後藤次男(18代目監督)1978年の1年間【42年前】

9年ぶりに2回めの監督就任。いずれも1年で終わっているので「つなぎの後藤」と呼ばれた。「みんな仲良くぼちぼちと」チームスローガンが「お祭り野球」という無計画な投手起用で球団史上初の最下位に…。

ドン・ブレイザー(19代目監督)1979年~1980年の2年間【40年前】 

野村克也にシンキング・ベースボールを教えた名将。前年の後藤監督の球団史上初の最下位を受け球団に請われ監督に就任。2年目にルーキーの岡田を2軍で育てようとしたが、1軍で起用させたい球団やファンから非難を受け、実力を発揮できず退任。

中西太(20代目監督)1981年の1年間【39年前】

西武ライオンズの名打者で、引退後は各球団でコーチ、監督として名選手を育てた。一軍コーチからブレイザーの退任を受け監督に就任。コーチ時代から確執があった江本孟紀を引退に追い込んでしまう。

安藤統男(21代目監督)1982年~1984年の3年間【36年前】

阪神タイガースのユーティリティプレイヤーとして活躍。監督就任後は1985年に優勝できる礎を築くも、最終年に選手の個人記録をめぐる起用でマスコミやファンに叩かれ、翌年も指揮を取るはずが退任に追い込まれた。

吉田義男(22代目監督)1985年~1987年の3年間【33年前】 

8年ぶり2度めの監督就任。安藤前監督時代に育った潜在力と、バースの覚醒で阪神タイガースを優勝に導き、正力松太郎賞を受賞。しかし2年後、球団史上最低勝率で最下位になり解任。

村山実(23代目監督)1988年~1989年の2年間【31年前】

16年ぶり2度めの監督就任。吉田前監督の前年の惨敗を受け、チームの若返りを急激に行ったことから、チームの足並みが揃わず1年目は前年に続き最下位。2年めも5位に終わり退任。

中村勝広(24代目監督)1990年~1995年の6年間【25年前】

阪神タイガースで堅実な守備でチームを支えた名二塁手。引退後は阪神の二軍監督やコーチを務め、二軍監督時代のリーダーシップが高評価され1軍監督に抜擢される。2年は最下位と低迷するも、3年目で守りの野球で優勝を争い2位。しかし翌年から投手陣が崩壊しBクラスに低迷し解任となった。

藤田平(25代目監督)1996年の1年間【24年前】 

阪神タイガースで初めて2000本安打を達成した名打者。中村前監督に要請されて2軍監督に就任し、前監督の辞任で1軍監督に抜擢。ぬるま湯につかった選手を鬼監督として厳しく指導するも、新庄など選手やフロントとの確執で解任される。

吉田義男(26代目監督)1997年~1998年の2年間【22年前】

藤田監督の解任を受けて10年ぶり3度めの監督就任。最下位に終わるなど成績は低迷するも、のちの阪神を支える今岡誠・関本健太郎・濱中治・坪井智哉・井川慶らを獲得、育成した。

野村克也(27代目監督) 1999年~2001年の3年間【19年前】

低迷する阪神を立て直すために、三顧の礼で迎えられた。新庄を投手として投げさせたり考える野球を導入するなど、立て直しを図るも3年連続最下位。沙知代夫人が脱税容疑で逮捕されたことで辞任。

星野仙一(28代目監督)2002年~2003年の2年間【17年前】

野村前監督が阪神を立て直せるのは熱血型の監督だと考え、オーナーに星野監督を推薦。生え抜きの選手と大型補強で獲得した選手を気持ちで活躍させ2年目で優勝。高血圧などの持病と監督の重圧から、健康面で勇退する。

岡田彰布(29代目監督)2004年~2008年の5年間【12年前】

2軍監督、一軍内野守備走塁コーチを経て星野監督の勇退後、監督に就任。1年目は4位も2年目に優勝。その後も2位、3位、2位と良い成績を収めるも、独走状態から巨人に優勝を奪われて責任を取り退任した。

真弓明信(30代目監督)2009年~2011年の3年間【9年前】

選手時代は最強の一番バッター。岡田監督の退任後に就任。4位、2位、4位と決して悪い成績ではなかったが、最終年にCS進出を逃したという理由で責任を取り辞任。

和田豊(31代目監督)2012年~2015年の4年間【5年前】

現役時代は生涯打率.290超えの安打製造機。真弓監督の後をついで監督に就任するも1年目は5位。2年連続で2位で優勝を逃し、優勝を目指した翌年も3位に終わり退任。

金本知憲(32代目監督)2016年~2018年の3年間【2年前】

金本監督待望論から優勝を望まれ監督に就任。4位、2位と監督として成長するも、いよいよ優勝を期待された3年目でまさかの最下位に終わり、責任を取る形で辞任。

矢野燿大(33代目監督)2019年~2年目【現在】

金本前監督の後を継ぎ、2軍監督から1軍監督に就任。ヒットのたびにガッツポーズを出し選手以上に喜び、選手に積極性を出させる采配と投手力で、初年度は3位に滑り込みCS進出を勝ち取った。